7 月 28 日~8 月 3 日 鹿島槍ヶ岳、爺ヶ岳、針ノ木岳
やさしさと思いやりに助けられたアルプス山行
自然保護部 Y.E
平均年齢80歳?年齢的に体に何かを秘めて いてそれでも心意気を持って出発‼ 柏原新道登山口で 2~3日前、熊が出て怪我 して降りてきた人がいたと聞いて、熊に対しては無防備、出逢いませんようにと祈る。水 1.5ℓを入れリ ュックも 8kg。2 時間位登ると肩にくい込んで重い。休みを取ってもらいながら遠くの富士山に励 まされ千メートル登り上がる厳しさを味わいまし た。種池山荘に着いたとたん土砂降り。5分遅かったらびしょ濡れでした。この雨は翌日まで止むこ となく雨風の中を予定より少し遅れて種池山荘を8 時出発。爺ヶ岳から冷池山荘まで3 時間。雷が鳴りだした時の注意事項もしっかり聞いていましたけど遭わなくて幸い でした。防水対策もしっかりして来たつもりでしたけどぐっしょり、あんまり寒くなかったので助かりました。冷池山荘に着 いても雨は止まず翌日も雲がなかなか切れず鹿島槍ヶ岳を途中で断念。種池山荘に戻る事に。途中昼頃になってやっ と晴れ渡り 360°のアルプスの山並みに感動。槍ヶ岳、穂高、前穂高岳と山の説明を聞きながらビールのおいしかった 事。翌日も畳平まで行き乗鞍岳は下から眺め、途中の大黒岳 2,710mまで登りお花をゆっくり観賞し運良くきれいな彩 雲にもめぐり合い大満足しました。下山し久々の温泉に入り手作り山菜料理にひとごこちつきました。 企画の知らせを受けた 4 月から今日まで充実した日々を過ごす事が出来ました。一睡もしないで 8kg のリュックを背 負い 1,117mを登り上がった事は私の宝です。リーダー、サブリーダ、仲間の皆さん大変お世話様になり有難うございま した。
高山植物に元気づけられる
自然保護部 S.T
数年ぶりの夏山登山でした。鹿島槍ヶ岳は深いガスのため途中で断念。雷鳥のつがいに出会いラッキーでした。また多くの高山植物が観られ、乗鞍岳より見た彩雲には皆元気で長崎に帰れますようにと祈りました。
リーダーのIさんKさんメンバーの仲間達お世話になりました。楽しい山旅有難うございました
喜寿を過ぎて難所の稜線歩きに満足
総務部 T.M
山登りの最終章といえる後立山連峰、鹿島槍ヶ岳。雨で登頂は出来ませんでしたが、冷池小屋から針ノ木小屋までの針ノ木サーキット縦走に出発。途中爺が岳山頂にAさんのレプリカを安置しました。新越山荘では滑落者の救助ヘリの音を聞きながら事故を起こさないことを強く誓いました。新越山荘からは、浮石だらけの岩登り、岩下り。やせた馬の背あり、片足がかろうじて乗る崩落地はカニの横歩き。スバリ岳、針ノ木岳直下は急登でしかもザレ場を、体力も使い果たした状態だが、360 度見渡す北アルプスの全山塊からのエールで乗り切ることが出来たようです。左膝の古傷が痛む急峻な針ノ木雪渓もアイゼンのお蔭か最終日なのか少々余裕があった様でした。
今まで歩いたアルプスで一番の難所の稜線歩きを喜寿を過ぎたこの年で歩けた喜びは最大です。角田さん有難うございました。Aさんご一緒していましたよね
もう一度挑戦の機会を !!
自然保護部長 H.I
少し前から右膝の痛みがあり不安な状況に加え、今回はメンバーも超高齢・熊の出没があったニュース・この時期ならではの天気の急変・雷の襲来など心配は尽きないままの出発であった。初日 1,000m以上の登りをみんなでクリアした時は何とかなると気持ちも切り替えられた。天気だけは非情で、鹿島槍ヶ岳の姿さえ見せてくれない。
種池小屋から下山するという朝(最後の朝)は朝焼けが見られ、小屋の向こうに剱岳立山、爺が岳の稜線の先に鹿島槍ヶ岳がきれいに見えた時は、神様はなんと粋なプレゼントをして下さったなと感じ、同時にあそこにもう一度挑戦するぞーと勇気をもらったような感慨深さでした。
大展望はそれだけで感動しますが、リーダーの説明でより一層心に残るものとなりました。リーダーはじめメンバーの皆さん有難うございました。
8 月 12 日(日)鴛鴦池周回と絹笠山
「山の日」に雲仙登山 (開山からの歴史に浸りながら)
企画チーム A.N
「山の日」は今から 9 年前の平成 28 年に国民の祝日として制定された。その意義は「山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する」というものだ。このような祝日だから、山を愛する我があゆみ HCの会員としても何が何でも行動を起さねばということで、雲仙岳三峰五岳のひとつ、絹笠山(&鴛鴦池周回)へ行ってきた。
何と言っても雲仙岳は長崎県を代表する秀峰、「山の日」に選ぶ山としては申し分ない山だろう。雲仙岳は古来より神の山と崇められており信仰の山であった。大宝元年(701)に僧行基が満明寺と四面宮という寺社を創設して開山したとされている。その後 16 世紀中頃までは山岳信仰で栄えており、比叡山や高野山とともに天下の三山と言われる聖地であった。
しかしキリシタン大名となった有馬晴信が仏教を弾圧、ほとんどの寺社を破壊してしまっている。その後江戸時代になるとキリスト教禁止令が出され、雲仙の地獄では改宗を迫るための地獄責めが行われ多くのキリシタンが命を落としている。
このように二つの宗教の争いや残虐行為がこの雲仙で起こっているが、承応 2 年(1653)島原藩主松平忠房の命により共同浴場が開設されてからは次第に湯治場として栄えていくことになる。
また明治の中頃以降になると上海租界の外国人が避暑地としての雲仙に訪れるようになり、更に上海長崎航路が運航されるようになると外国観光客はピークを迎え、西の軽井沢と称された。
昭和の初め毎日新聞社主催で「日本新八景」をはがき投票で選ぶ全国コンテストがあった。これに長崎県民は一人何枚も投票し、雲仙は山岳部門で見事第一位となった。
この結果を踏まえて長崎県は国立公園指定の請願書を国へ提出し、雲仙は昭和 9 年(1934)に国内最初の国立公園に指定された。これは県民が一丸となって運動した成果であろう。
昭和の初期まで「雲仙」は「温泉」と表記して、「うんぜん」と読んでいた。「温泉神社」は「うんぜん神社」、「温泉温泉」は「うんぜんおんせん」。しかしこれではいかにも紛らわしいということで国立公園指定と同時に「うんぜん=雲仙」に変更された。
平成になって雲仙普賢岳は島原大変と呼ばれる 1792 年の噴火以来約 200 年ぶりの噴火を起した。今でこそ平穏を保っているように見えるが、死者・行方不明者・負傷者合計 56 名の大惨事であった。
この大噴火から既に 35 年が経過したが、埋もれてしまった噴火前の普賢岳へのルートはいまでも記憶に残っている。薊谷の普賢神社入口から入り込み、避難所として宿泊もできた普賢神社で一休み、冬は凍結する普賢池に寄り道して霧氷の名所霧氷沢から普賢岳を目指していた。思い出すと実に懐かしい。
叶わない話ではあるが、もしもこのルートが歩けるのであればまた「山の日」を選んでもう一度歩いてみたい。雲仙の素晴らしい自然や重みのある歴史などをかみしめながら・・・・
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