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会報誌  2021年5月号

4月4日()

市民の森自然観察会

春の自然観察会に参加して     自然保護部  E.Y                                   


 いつもの山行と違って自然観察会、懐かしい人たちと久々の山行で気分的にゆったりして歩く。

スミレがあっちこっち可愛い、スミレの花はほとんど変わらないのに葉の形が違ったら名前が変わる。葉を広げたり裏を見たりゆっくり違いを観察します。

 烏帽子岩からの展望もよく普賢岳、天草灘もすぐ近くに望めて、新緑も目にしみいるような美しさで、誰かが秋の紅葉も見たいと言っていました。

 帰りの林道歩きではタツナミソウ、ちょっと過ぎたショウジョウバカマ、ムベの花も今が盛りです。真っ白い雪が積もったような花がシロドウダンと聞いて初めて見るきれいな花でした。

 日程変更でリーダーのご苦労もあったでしょうが天気にも恵まれて心行くまで自然と向き合う楽しい1日を過ごしました。

 

327日(土) 

日本最古の山城

四王寺山に築かれた大野城と岩屋城  企画チーム長 N.A                                               

 飛鳥時代半ばの660年、百済は唐と新羅の連合軍に攻撃され、滅亡しました。

大和政権は、百済の復興を図るために援軍を送りますが、白村江の戦いで大敗し、九州は唐と新羅からの侵攻の危機に直面することになりました。そこで、九州の防衛強化が必要になり、福岡平野と南の筑紫平野を遮断する水城が築かれ、大宰府も内陸に移転します。さらに大宰府の南に基肄城、北の四王寺山に大野城が築かれました。また対馬には金田城、肥後菊地には麹智城も築かれるなど防衛のための軍事施設が建設されました。

 1586年、九州制覇を目指す薩摩島津の大軍4万を相手に、わずか700余名の家臣とともに戦った豊後大友氏の家臣、高橋紹運、紹運は14日間の籠城に耐えて壮絶な戦いの後に家臣ともども玉砕しました。この結果、岩屋城は島津軍の手に堕ちますが、この籠城戦により戦局は大きく変わり、豊臣秀吉の援軍を得た紹運の実子、立花宗茂たちは、島津軍に占領されていた城を次々と奪還しました。

 この戦いが認められ、立花宗茂は秀吉の命により柳川十三万二千石の大名となります。

 

大宰府の四王寺山に登って歴史を知る    総務部 O.N                          

大宰府天満宮には、数回、お参りしたことがありましたが、登山のことを考えたことはなく、四王寺山(大城山410m・大原山354m)の計画を見てワクワクし、歴史本を広げました。西暦660年、唐・新羅が百済を滅亡させ、百済は大和政権に支援軍の派遣を依頼し、663年大和政権の軍船400隻が白村江に到着、唐軍と戦い倭国の海軍は壊滅した。

ショックを受けた大和政権は、664年に対馬、壱岐、筑紫に防人を集結、大宰府を海岸部から内陸部に移すなど唐の進攻に対する防衛体制、水城堤、大野城ほかの山城、坂本ほかの大石垣、土塁などで固めて備えた。

一方、朝鮮半島の単独支配を目指した新羅は、唐と戦うには倭国との同盟が不可欠と判断して、倭国に使節を派遣、両国の協力体制ができあがって、戦いの末、唐は朝鮮半島支配の拠点を遼東半島に移して新羅の朝鮮半島支配を認めた。こうした経緯で、大和政権の危機は回避されたと書かれていました。大化の改新は645年であり、大和政権が成立して間もなくのことであったとのことです。現在、四王寺山周辺は、県民の森・キャンプ場となっており、沢山の満開の桜が迎えてくれ、多くの市民が楽しそうに家族連れで歩いていました。駐車場に止め、歩き始めると坂本神社の幟が見え、歴史に詳しいリーダーに続いてお参りすると、元号「令和」のゆかりの地とされている坂本八幡宮ですと教えてもらいました。

登山道は八幡宮から緩やかな上りで1キロぐらい、趣のある人家を見ながらゆっくりと歩きました。いよいよ人家がなくなり、山歩きとなりました。四王寺山登山は、大石垣から右回りに大城山、百間石垣、大原山、大宰府口城門方向に周るとのことでした。登山道はよく整備されていて、急登も、滑りやすい所も少なく、ゆっくりと歩きやすい歴史の登山道でした。野草は、道端に可愛い小ぶりのリンドウ、ギンリョウソウ(別名・ユウレイソウ)、ツルニチニチソウ・(別名・ツルギキョウ)、アセビなどを教えてもらいました。天候、眺望もよく山頂から大都市、福岡のビル街も見えました。お弁当は、そよ風に木洩れ日を浴びながら、ゆっくりと美味しく食べることができました。下山道の最後では、吹いた風が桜吹雪となり、我々の疲れをとってくれました。また、行きたいと思っています。ありがとうございました。